第2回 栄性学僧その二・各種の功績と故郷との結びつき

親子の絆(路傍の碑から見える関係)

権僧正は勅任官であることから御所清涼殿への昇殿、江戸城への登城も許された。権僧正は僧侶の乱行不正を糺す役目で徳望のある人が選ばれる役職であった。根来寺は密厳院を開いた覚鑁を祖師とし、この流れを汲む智山・豊山派の寺院で六千余を数える一代聖地である。法難・戦乱により焼失した寺院の再興の中心となって一大事業を遂行することになり、文化十四年大殿法堂の普請に着手し、十年間の努力によって文政十年立派に甦った。仏教界に広く知れ渡った栄性の業績は当時の幕府に知れるところとなり、天保四年徳川宗家に請われて護国寺・護持院・譽楽寺をお守りして天保八年(1837)七十歳にて遷化(注1)した。

善光寺道沿い梨窪の杉木立に建つ「日本廻国供養塔」の碑陰には「寛政九己天四月吉日(1768)八幡村行者 良国・妙国」とあり、浦澤勝右衛門(良国)さんが我が子(栄性)を想い修験者として諸国の霊地で修業を重ね我が子の無事を祈る気持ちで京の都へ通じる善光寺街道に建立したと思われます。

【注1】遷化;位の高い僧が死ぬこ

左;大殿法堂

右;日本廻国供養塔

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