寺社めぐり

姨捨山長楽寺

信濃國第十四番の札所にして天台宗東国寺派、創建年月不詳、中興開山は社宮寺の弟子常栄であり、社宮寺の支院であった。廃仏毀釈で社宮寺は、廃寺となったが長楽寺は免れた。
天台宗の名刹で境内には、多数の句碑が建ち、月の名所と知られている。
本尊の聖観世音菩薩は、善導大師作と伝えられるシナ仏で、鎌倉時代の宋様式。

佐野昇純 住職 (千曲市八幡4984 TEL 026-273-3578)

姨石と観音堂

本堂庫裏

芭蕉面影塚、冠木門 「おもかげや姨ひとりなく月の友」

新装なった本堂遠景 (平成22年7月)

八幡山大雲寺

八幡の郡集落の西に大雲寺池があり、それを取り囲むように北に矢崎山、南に糠塚山がある。中央の奥まったところに寺山がそびえ、その麓に八幡山大雲寺がある。蓮の生い茂った池から眺める大雲寺は、巨大な石垣の上に建つ伽藍で、寺というより古城の観を呈している。
大雲寺の付近には東山道の支道が南北に走り、寺域の東方一帯は条理的遺跡構が残る古代から開けた地である。
本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は迦葉尊者と阿難尊者である。。

田村豊文 住職 (千曲市八幡郡1253 TEL 026-272-3159)

大雲寺全景

満開の桜並木

石垣の上に聳える伽藍と満開の桜

何とも云われぬ蓮の花

恵日山開眼寺

當寺は、信濃國第十三番の札所にして、慶安四年(1651)八月、妙心寺第一座松本深志乾瑞寺第一世竜天登大禅師の開創せるところ、観音堂は元禄四年(1691)當寺二世・祖英和尚の再興せるものである。
本尊の聖観音菩薩は、一木造り全身皆金色の尊像で、江戸時代初期のものと推定される。藤原時代の古様式に倣い、京仏師の手に依っての彫技は、まことに賞すべきものがある。
(開眼寺由来より)

柴田文啓 住職 (千曲市八幡中原57 TEL 026-272-5019

桜の咲く頃の本堂全景

本堂天井の掲額、龍の絵作者は日本画家 第一人者である小泉淳作氏 (山中 卓氏寄贈)

本堂の俳額

日本画家小泉淳作さん作の「雲龍図」下絵 縦 2.7m、横 3.3mの下絵実物

佐野山医王院長福寺

当山は佐野山・医王院・長福寺と号し、仁平元年(1151)沙門冥海の開創にして行基菩薩御作の薬師如来を本尊とする古刹である。
後に数度の再営あるも元禄四年に貫翁僧正によって建設されたものが、明治二十八年八月十一日に落雷によって焼失。これを明治三十三年、そして、昭和五十五年に再建した。旧本堂跡地に薬師如来を安置し薬師堂と称す。

薬師池から本堂(薬師堂)を望む

100段の石段を登ると、山門がお出迎え

堀内源次郎句碑 「さゝえんと すれど 倒をるゝ雪の竹」

西行法師旧蹟之碑

桑原山龍洞院

龍洞院の寺伝によると、信濃の生んだ高僧の恕仲天闇が、応永年間(1394~1428)に、修行と教化の旅の途中、たまたま桑原小坂の観音堂に止宿した。その夜、龍王・秋葉二神の霊夢により、しばらくこの地にとどまった。
古くから桑原は東山道の支道が南から北へ走り、善光寺をへて越後へと通ずる幹線沿いの地であった。
観音堂に止宿した恕仲天闇に接した当地の土豪・桑原左近大夫は、その教えに感動して、互いに協力しあい一寺を建立して龍燈院と名づけた。
本尊は釈迦三尊坐像。

南沢道友 住職 (千曲市桑原小坂2136 TEL 026-273-1685)

山門

秋の庭園

本堂と新装成った庫裏

龍洞院山門

稲荷山五大院長雲寺

元暦元年(1184)高野山龍光院の快照大徳が当地を巡錫の砌、不動明王の霊夢により篠山将軍塚に龍燈の上がるのを見て大願を発して龍燈山長雲寺を開創したが、天文年間に甲越の兵火にあって焼失、天正十七年(1589)当時住職の鎮雅が現在の地に再建した。
史実によれば、四国は伊豫の今治藩主松平定時公の子が、京都御室仁和寺二十七代守恕法親王の弟子となり、出家修行の後に良言上人となる。正徳五年(1715)信州上田藩(城主松平忠周)家老久松定賢が願主となり、伽藍を再興して仁和寺の直末寺となる。
本尊五大明王と愛染明王(重文)等を京都醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)より拝領し稲荷山五大院長雲寺の号を賜って、良言上人は当寺を中興開基し、祈願寺として寺勢大いに振るう。良言上人が当山に赴任の折り、京都の醍醐寺三法院にご安置されしご尊像を御室仁和寺の守恕法親王より御寄進賜った全国でも希有の仏像である。

海野慶宗 住職 (千曲市稲荷山2239 TEL 026-272-3730)

稲荷山五大院長雲寺

本堂向拝の龍と獅子の彫刻

五大明王(中央が本尊不動明王)

五大明王(中央が本尊不動明王)

寶珠山浄光庵

龍洞院前の元町に寛永(1624~1643)のころ、笑月洞春和尚を住職とする龍洞院の門寺があり、これが浄光庵の前身といわれている。
明和二年(1765)龍洞院十五世の梅峯雄松和尚が地蔵堂に住んで堂宇を建立し、浄光庵として元町にあった門寺を当地に再興した。
浄光庵は龍洞院とはとくに関係が深い。本寺ゆえでもあるが、当庵四世の大柱雄薫和尚は龍洞院へ出世しているし、ここから他寺の住職に迎えられた和尚もいる。
本尊は釈迦如来、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩である。

宮本俊幸 住職 (千曲市桑原中区1337 TEL 026-274-1201)

善光寺街道からの山門入り口

境内左のお堂

浄光庵山門と六地蔵

本堂

光明山無量院極楽寺

当寺は京都知恩院の末寺で、鎌倉光明寺の開山然阿良忠記主禅師が開いた。
創始は佐野の寺平に、その後大田原、桑原小坂の浄土屋敷へ移った。
その後、稲荷山城が築城され天正十一年(1583)城の鬼門除けとして五日町(現中町)裏へ移転し、当時の住職明譽玄栄上人が中興開山となっている。
幾度の洪水被害にもかかわらず、極楽寺のシンボルともいえる袴腰の鐘楼は流失せず現在地に移築された。(天正十一年須崎三河守建之の棟札があった)

南澤旭善 住職 (千曲市稲荷山814 TEL 026-272-2131)

山門正面入り口

本堂全景

袴腰の鐘楼と大けやき

六地蔵

武水別神社

社伝によると武水別(たけみずわけ)神社は、第八代孝元天皇の御代に御鎮祭と伝えられており、善光寺平の五穀豊穣と千曲川の氾濫防止とを祈念して祭られた。
12月の大頭祭(新嘗祭)は、御神徳に対し氏子民が感謝の誠を捧げるこの地方最大の祭典である。
八幡三神は、安和年間に京都の岩清水八幡宮より勧請され、相殿に報斎された。
誉田別神(ほんだわけのみこと)は応神天皇、息長足比売命(おきなかたらしひめのみこと)は応神天皇の御母君の神功皇后のことであり、()大神(おおかみ)とは田心姫、瑞津姫、市杵嶋姫の三女神の総称で国家鎮護、航海、交通安全の守護神と言われている。

(千曲市八幡3012 TEL 026-272-1144)

県道を跨ぐ大鳥居

神に近い人が通る下馬橋(太鼓橋)

神社境内の鳥居から本殿を望む

頭人行列(冠着山をバックに出発)


延喜式内郷社治田神社(上宮)

治田神社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)后八坂刀売命(やさかとめのみこと)・農業の保食神(うけもちのかみ)を祀り、我が郷土の産土(うぶすな)の神であり、大明神また鎮守様とも言って親しまれる神社である。
古くは、治田山に鎮座され、永享の乱(1435)後、地方豪族・村上氏が確固たる地盤を築き、中世、地士・桑原氏の奉仕によって、今の地に社殿が遷座されたと思われる。
(千曲市桑原東区)

治田神社(上宮)本殿

蚕神と各所から治田神社境内に祀られた祠群

本殿入り口の鳥居

善光寺街道から神社へ向かう一の鳥居

治田神社(下宮)

延喜神名式にはハタノ神社と読ませています。この読みに関して新撰姓氏録には、ハリタ【墾田】で開墾に関係するものであろうと説いている。あるいは渡来系の秦氏が祭った神とも伝えられているが不明である。
また、さらに社伝には桑原にある社を上宮、稲荷山にある社を下宮といっておりましたが、一郷分村により二社になったともいわれている。
稲荷山の氏神(鎮守)である。

治田神社から見た児玉邸 (治田神社神主)

治田池と桜

本殿

明治十二年(1880)横屋小路 (広小路)に建立した治田神社大鳥居