エリアガイド姨捨周辺

姨捨周辺

更科紀行と芭蕉【田中欣一著新更科紀行より】

「さらしなの里、おばすて山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の、心に吹さわぎて・・・」(更科紀行)、「・・・ことし姨捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みのの國をたち、道とはく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。・・・」(更科姨捨月野之辨)・・・・と、姨捨の月を恋い、美濃路から一日10里(39km)のハードスケジュールを自らに課して姨捨入りを果たし、仲秋の名月に対した芭蕉の感懐はいかがなものであったか。・・・・・
芭蕉の「更科紀行」の命題が、姨捨にあることからすれば、名吟“俤や姨ひとり泣く月の友”は大きな意味を持つ。
姨捨山長楽寺周辺の句碑解説、姨捨伝説については田中先生にお預けします。


田中欣一先生の講演 芭蕉と姨捨 平成25(2013)年9月

姨捨の棚田が重要文化的景観に選定

古くから月見の名所や棄老説話で著名な姨捨山の北麓には、千曲川の河川敷から遠く善光寺平に至る広大な盆地に望んで、1500枚の水田から成る姨捨の棚田が展開する。・・・以上から文化的景観は(1)生産の場である棚田が展開する区域、(2)溜池である大池を中心とする水源の区域、(3)大池から出発して棚田における利水の背骨となる更級川の3つの景観単位に区分でき、その周辺に水源涵養林の区域や生活の場である集落などが展開する。・・・中世末から近現代に至るまで継続的に営まれてきた農業の土地利用の在り方を示す独特の文化的景観であり、選定して保護を図るものである。
選定日平成22年2月22日(全国19箇所、北信越で最初の選定)

姨捨山長楽寺観音堂と巨大な姨石

姨捨駅より棚田、善光寺平方面を望む

東山道支道【県文化財保護協会著信濃の東山道より】

麻績駅家から亘理駅家への道は古峠、一本松峠、猿ケ馬場峠と時代により変遷されたと思われる。
今回は一本松峠ルートを姨捨より辿る事とする。

大池地区送り盆行事「百八灯」【さらしな歩紀より】

松代藩初代藩主真田信之の妻小松姫(本田忠勝の娘、後に徳川家康養女)の輿入れに際し、その化粧料として徳川家康より贈られた土地。(大池新田52石、小島田村48石)小松姫没後元和9年頃から小松姫の菩提寺松代大英寺13世諦譽上人が「人間の煩悩を慰めるために108の灯火を上げて送り火とするがよい」とすすめられたことにより、送り盆の8月16日に東山道道沿いに1㍍間隔に置いた108のわら束に子供たちがたいまつで火をともす行事が今でも続いている。

宗吾大明神石仏 長野県知事 力石雄一郎
栃窪池改修記念として建立された(大正4年頃)

一本松峠

大池を右手に見て、大池自然の家・原体験の森の敷地内を通り、旧街道を上って行くと一本松峠の石柱が設置されているが正式な一本松峠ではなく(行政区境に設置された物)200m程先の石祠が一本松峠である。高さ70cm、巾40cm、厚さ66cm、「明和七年(1770)六月一八日 信州筑摩郡長井村立之」と陰刻されている。ここから大野田へは旧道の整備がなされていないため歩く事が困難であるが大野田の住民に整備の動きが感じられる。
大野田 昔は大野で生金とは別集落であった。
古峠は東山道から分かれて越・出羽に通じる官道であったという。
鎌倉時代以降は一本松峠が多く利用された。
峠近くに「ちょうじゃがまや」(長者の厩)という地名が残っている。

大池地区送り盆「百八灯」行事

一本松峠の石祠

善光寺街道【善光寺道400年宮下健司著より】

慶長19年(1614)5月5日、飯田から入府した松本城主の小笠原秀政は洗馬~麻績間の宿駅制度を整えたことによって、猿ケ馬場峠を越えて桑原や稲荷山と結ばれ、ここに北国西脇往還が成立した。洗馬~善光寺間は19里半(約80km)の道のりで、12の宿場が設けられた。この道の利用者は、参勤交代の大名行列や将軍の朱印、老中の証文を携帯して無賃で通行できた公用旅行者は少なく、そのほとんどは善光寺参りや伊勢参りの旅人や物資運搬の人々が多かったことから、やがてこの道の名は「善光寺街道」あるいは「善光寺西街道」とよばれるようになった。

馬場峠の由来【さらしな歩紀より】

八幡村史によると馬場峠は女峠の名をもっているので、古く戦国時代から裏街道(一本松峠にたいして)として往来があった峠である。峠に近い中原の言い伝えによると、武田信玄家臣馬場美濃守が、主命によって開いた峠からこの名称がついた。

《今でも残る史跡類》

念仏石

猿ケ馬場峠を越えると善光寺が遥拝でき、長旅の疲れも忘れ、思わず念仏を唱える旅人の姿が浮ぶ。

馬塚

昔の村境の場所である。【詳細は説明板参照】

ヲバステチカミチ

善光寺街道名所図会に明記されており、ヒウチ石を下った右から姨捨棚田方面への近道を平成21年春ルート調査を行い芭蕉も通ったであろう古道を整備しました。

街道筋の茶屋跡【さらしな歩紀より】

洗馬より善光寺へ至る13の宿場、4つの間の宿、つまり善光寺西街道で最大の難所である猿ケ馬場峠の中腹にあって、旅人の安心・安全を図るために松代藩は扶持として3千坪の土地を与え茶屋を開かせた。最盛期には9戸の茶屋があり繁盛した。

善光寺街道を歩く参加者(平成20年秋)

鐘の音がチーンチーン聴こえそうな念仏

長楽寺句碑群【新更科紀行 田中欣一著より】

おもかげや姨ひとりなく月の友 (松尾芭蕉)
元日に田毎の日こそ恋しけれ (松尾芭蕉)

越智越人随行塚

あひにあひぬをばすて山に秋の月 (飯尾宗祇)
待宵や明日の夜の目は貯たばハれず (荒木田守武)
姨捨や月をむかしのかゞミなる (加舎白雄)
信濃では月と佛とおらが蕎麦 (作者不詳)
くもるとはひとの上なりけふの月 (宮本虎杖)

権少僧都成俊之碑

はじめから夜毎続きて秋の風 (田川鳳朗)
月見るや滞なく七むかし (更科庵静一)
姨捨の山の月かげあわれさにうしろにおひて帰るまで見つ (四方歌垣真顔)

高松明言(回翁)回文歌碑

更級や姨捨山の月ぞこれ (高浜虚子)
今朝は早薪割る音や月の宿 (高浜虚子)
徐に風ふく月の桂哉 (伊藤松宇)
眠り落し山の灯月は天心に (根津芦杖)

長楽寺境内の句碑群

平成21年観月祭姨捨地区の神楽奉納