エリアガイド稲荷山

稲荷山宿

京都方面から善光寺への参拝者は猿ケ馬場峠を越え、桑原宿、稲荷山宿に入り、篠ノ井追分宿へと善光寺を目指した人びとが行き交い賑わったもので、最盛期には旅籠屋が三十軒もあった。幕末から明治にかけてはマユ、生糸の集散場として一大商業地に発展し、今も町のあちこちに白壁の土蔵づくりの町屋が立ち並び、往時の繁栄ぶりが偲ばれます。


稲荷山町 たまち蔵町  平成29(2017)-01-04

稲荷山の道標

稲荷山宿の治田町から上八日町に出る交差点に、大きな道標が立っている。「右 西京街道 左 八幡宮道」とあった。明治十年(1877)の建立であるが、当時はまだ歩く人のために、こんな立派な道標もたてられたのであった。稲荷山は商家の町であった。単に善光寺街道筋の一宿駅というだけでなく、北へ篠ノ井追分・丹波島宿を経て善光寺へ三里半(14km)、東方松代城下へ三里(12km)、南に八幡・戸倉・上山田をひかえ、また、西部の山地に広がる農山村部の買い物客を一手に引き受けるという、経済的に枢要の地を占めていた。稲荷山は火を恐れて厚く塗り上げた壁の重量感、豊かさが持つおおらかさは稲荷山ならではのものであった。町の北はずれにはこれも明治時代の「右 東京 屋代道 左 せんこうし道」という道標がある。
【田中欣一著 新更科紀行より】

往時の街並みのおもかげを残す一角

稲荷山の道標 (現在の道標は当初の場所とは異なる)

今も残る小路

車社会により、県道、国道403号が幹線道路となり、稲荷山街中を闊歩しているが以前は荷車が通る幅であったが当時の小路のおもかげは感じられない。
それでも車道から街並みの一歩奥に入ると昔の小路が残り、何かしら当時の活況を感じることができる。
今も残る小路名は、桑原小路、西小路、柳小路、田廻り小路、役所小路、馬出小路、閻魔小路、寺小路、川原小路等である。

繁栄の面影残る稲荷山
上杉景勝が天正十年(1582)この地に稲荷山城(平城)が築かれ、町割及び街道整備、伝馬制度が確立し稲荷山の歴史がはじまった。
幕末から明治、大正時代にかけて北信有数の商都として繁栄し、当時の面影である、重厚な白壁、鬼瓦等をみて歩く事も楽しみのひとつである。
その一つ、幕末から明治にかけて生糸輸出の先駆者となった松林源之助氏の邸を修復再現し民俗資料館「稲荷山宿・暮し館」を見ることをお薦めする。

郷土から輩出した人をあげますと、
・近藤日出造 【漫画家:政治漫画の第一人者で更埴ふるさと漫画館にて展示】
・倉石忠雄 【政治家・大臣歴任】
・児玉幸多 【大学教授】

・西澤勘次郎 【銀行家】

当時の喧騒が聴こえそうな小路

鬼瓦

更埴ふるさとまんが館

治田公園に設置された倉石代議士の銅