エリアガイド善光寺街道

猿ケ馬場峠

【中原郷土芸能保存会馬場峠物語より】

猿ケ馬場峠の名の由来

武田信玄の家臣、馬場美濃守が主命によって開いた峠であることから名付けられた。また、現在の聖湖は、その名も峯の池、馬場池、番場池、猿ケ淵と呼ばれ、まちまちであった。

寺窪の由来

池の東側に寺窪と言う地籍がある。昔ここに小さな尼寺があった。名月の夜、尼僧が縁に出て月をめでていると、突然大きな蜘蛛が現れ、アッという間に寺諸共に池の中へ巻き込んでしまったと言う。以来、尼寺の跡を寺窪と言う。

念仏石と常夜灯事件

峠を少し下ると念仏石という石がある。この石は馬が寝ているような形をしており、夜遅くここを通ると、チンチンと念仏を唱える鐘の音が聞えてくるといわれている。このあたりからは、善光寺が良く見えることから、明治の初年に常夜灯詐欺事件というのが起こった。つまり、念仏石の左右に善光寺を遥拝する常夜灯を建之するということで、全国から浄財をつのったのである。
出資者の国名と姓名を常夜灯に刻んで、永久に火を灯すということなので、随分浄財も集まった。ところが4m四方の基礎工事のみで常夜灯は建たなかった。

猿ケ馬場峠聖湖畔より三峰山を望む

馬が寝そべっている様に見える念仏石

三千坪の地名の由来

今でも茶屋跡が残るこの付近は、別名、三千坪と呼んでいる。
馬場峠は往来も激しく、しかも道も険しいため、身支度の不用意なものが雪の中で凍死したり、強盗に襲われたり、空腹のために行き倒れになったり、旅人の事故が多かった。松代藩主はこれを憂え、領内の義侠心の強い者三名をこの地に派遣して、一人あて一町歩の無税の土地を与えて、責任を持って峠の安全を図らせた。

一里塚とのぞき

街道の左右に直径7m、高さ5m程の土饅頭が一里塚であるが、上側の盛土は林道開通工事でなくなり、現在片側のみ残っている。
一里塚からさらに下ると大井氏屋敷跡がある。この辺は「のぞき」と呼ばれている。丁度峠の中腹にあたり、善光寺が良く見えるところである。ここに竹筒にレンズをつけた簡単な望遠鏡が据えつけてあった。この望遠鏡が実にうまい具合に善光寺のお堂を捉えており、旅人は何文か銭を払って覗いた。

クツ打ち場と女峠

馬に草鞋を履かせる事をクツ打ちという。丁度善光寺から20kmの距離にある、このあたりは、馬の草鞋を履き替えさせるのに格好の場所であったのであろう。この辺り一帯は、馬子の捨てた草鞋が山をなしていたという。
ところどころに清水が湧き出ており、馬に水をやりひと息入れるには絶好の場所であった。この辺りは、別名女峠という、道がだらだら坂で女子供でも楽に歩けるところからこの名がついたものである。

中原の獅子舞

宝暦元年(1751)の正月、丸一と称する五人組の神楽芸人が中原に泊まり、村人たちに獅子舞を見せてくれた。この芸にすっかり感じ入った姨捨正宗酒造の和田家の先祖が此の芸人を二ヶ月ほど自宅に泊めて、中原の人達に芸の伝授を乞うた。これが今もなお残っている中原の獅子舞である。

宿ノ原の庚申塔

庚申信仰は暦の十干十二支の組合せで、六十日に一度ずつ庚申の日が巡ってくる。庚申の夜、信者が集まって念仏などを唱え、夜明かしをして日の出を待てば長生きできるとの信仰は江戸時代から当地でも盛んに行われた。
庚申の夜のタブー、庚申の夜は慎みが要求され、この夜身ごもると、生まれてきた子は大泥棒になると信じられていた。また、此の夜に早く寝ると、白髪が増えるともいわれていた。宿ノ原庚申祠青面金剛像は、元文二丁巳天八月十六日(1737)舟形光背型日月二鶏三猿が認められる。街道沿い庚申塔は寛政九丁巳歳霜月吉日(1797)桑原講中、宿の原三昧堂にも古い時代の庚申塔が、半ば土に埋まっている。

霊諍山

善光寺街道桑原宿西入り口の右手小高い山の上に石仏群がある一帯を霊諍山と言う。霊諍山を開いた北川原権兵衛氏、開山の理由は、母の癪(腹部や胸部の激痛)の病を信仰の力によって治すため、明治十三年から信心に心がけ、行を積みながら諸国の寺社の参拝をし、同二十四年春より神がかりができるようになった。
その後、病人や願望人の求めに応じて、その願いを神に取りついだ結果、信者が増えていった。そのため本殿に大国主命等を祀った。

桑原宿

天満宮前より望む街道(約700mは素晴らしい景色である。上古の桑原は地理上から見ても、北陸と上方とを結ぶ重要街道上にあり、馬場峠の前面に位置し必然的に旅人の宿駅地として必要な場所であった。
本村の古記録には、寛永元子年(1624)松代家老出浦対馬守の下知によって「町割有之、柳沢伝兵衛縄張人也」とあるから、桑原本郷を通ずる街道も遅くも、元和年間(1615~1623)には、既に改修されたと推測される。
現在は、住宅も建て替えられ宿場の風情は感じられませんが、左側を流れる川も暗渠となり、舗装道路を車が主役となり走り去っております。街道中程には土塀の伴月楼関記念館が昔の武家屋敷の形を保ち、既に撤去された本陣跡地、少し下り左に浄光庵と治田神社(上宮)の鳥居、大鳥居をくぐり神社参道を300m程進むと本殿に参拝できます。重厚な卯建つ様式の家屋が数軒残っており、街道の面影を少しではあるが醸している。

宿ノ原の庚申塔

桑原宿東の入り口から西を望む

口留番所跡

桑原宿西の入り口に位置し、松代藩と松本藩に通じる善光寺街道を往来する人びとの取締りを司っていた。上方即ち京都からの桑原宿玄関口鍵の手にばんしょ、人改めと呼ばれ、主に領内から他領への出入り口に設けられ、「一寸待った」をやる所から、口止番所と呼ばれた。
警護と用心のため三つ道具が備え付けられた、即突棒、刺股袖搦である、其の他用心鉄砲を所持することを許されたが、その使用には厳重な取締りがあった。

天満宮

桑原宿西の入り口に長福寺がありその境内の一角に有ったが、廃寺(長谷寺に併合)でなくなった。しかし、その後住民の熱意で現在の場所に再建し、菅原道真公を祀り、今では合格祈願を始め新年のお参り等区民のよりどころとなっている。

雨浦地蔵尊

長福寺の弟子に隆蔵という小坊主があった。どこの子かわからないが、小さい時からお寺で育てられていた。村人達が干ばつで困っている有様を隆蔵は見て、峠に上り峯池(馬場池)へ行って、土堤へ向かって根気良く水口を突き坂下へ水を流して里を潤した。坂裏の人達は池水が来ないので騒ぎ出し、池へ登って見ると小坊主が長い竹槍を抱えて、坂下へ流れる水を楽しそうに眺めていた。
坂裏の人々は、憎い小僧を捉えて、赤蟻地獄に落とした。小坊主は赤蟻に刺されて無残な死を遂げた。村人は弟子の死を悼んで、雨浦せぎのほとりに祠を建て、感謝し祀った。

伴月楼記念館

旧名は新右衛門屋敷・象山桑原記念館と称し、象山に纏わる作品や遺品が展示されていたが管理が困難なことから、長野県 県立歴史館へ寄贈し、関家の母屋である武家住宅の一部を公開し、先祖が来客のために用意したり、日常の生活を送る際に用いた美術品や道具類を展示する現在の名称となった。

延喜式内郷社治田神社(上宮)

祭神は彦坐命であり、建御名方神、后八坂刀女命、農業の保食神を祀り、我郷土のお産土神(うぶすなのかみ)であり、大明神又鎮守様ともいって、親しまれる神社である。古くは、治田山に鎮座され、永享の乱(1435)後、地方豪族村上氏確固たる地盤を築き、中世、地士桑原氏の奉仕によって、今の地に社殿が遷座された。この神社脇を東山道支道が通っており古い地名が今に残っている。

天満宮

農道脇に佇む雨浦地蔵尊

桑原宿街道沿いの土塀と伴月楼記念館

大鳥居を潜り300mほど参道を進むと 治田神社本殿に行き着く、参拝