お悦びの盃

「北信流」と言われる盃事について

このことは、一般的に北信地方で行われています宴席での「お(よろこ)びの(さかずき)」と言われている儀式のことです。
宴席には、結婚式を初め、神祇の祭事、豊年、誕生、雛祭、出世、相続、棟上げ、新築、開店等々の慶事より、新年会、忘年会、同級会に至るまで数々ありますが、おおむね神式の直会の場合が多いです。

盃事の際は、「」が謡われますが、このことは「肴中の儀(こうちゅうのぎ)」と呼ばれ、お盃を差し上げる時の「お(さかな)」とご理解して頂ければ良いと思います。
北信の中でも松代町(長野市松代)には、真田家に古来より伝承されたと言われている盃事が、同町の能楽家島田家に伝えられており、大変格式の高い儀式です。

城主が戦に向かう折に、留守を(あずか)る家老より主君の戦勝を祈念して差し上げる盃事でありますが、一般には、それの略された方法で行われています。
応仁の乱以来、二百年にも亘り続いた戦国時代に、すっかり失われた社会秩序を立て直すために、徳川家康公に依って能楽が、武家の式目に取り入れられましたので、謡曲がしっかりと武家社会に溶け込んでいました。

明治維新の廃藩置県によって中央より着任した長野県知事が、松代町に参った折の宴席のおもてなしに「お悦びの盃」を受けました。此のことが大変気に入りまして、それ以後、知事の宴席では度ごと行なわれる様になりました。折柄、維新後一般の人達にも能楽が許され、旱天の慈雨の様に、「い」が一般社会に溶け込み普及すると共に「お悦びの盃」事も、宴席の儀式として広まりました。

北信地方で一般に行われております宴席の次第をご紹介します。

《宴席例》
司会者により
一、 開宴の言葉
二、 あいさつ(主催者、主賓等)
三、 乾杯(適任者のご発声で)

これより(えん)(たけなわ)になっていきます。酒席のお料理は、たいていは先付に始まり、お吸物で終わりになるので、その頃を見計らい「お悦びの盃」を致す動議が来客より出されます。来客の中より適任者が立ち上がり、おおむね次の様に話します。

宴酣の処(えんたけなわのところ)、大変僭越(せんえつ)ですが皆さんにお(はか)り申し上げます」(賛同の拍手)
「本席のおめでたに際し、一同大頂戴を致しましたので、座の決まりとして、此処で「お悦びの盃」を差し上げたく思いますが如何なものでしょうか」(一同拍手)
「早速のご賛同、ありがとうございました。つきましては、其の方々のご指名権までもお与え頂きたく存じます」(一同拍手)
「それでは私達一同、日頃大変お世話に成っております会長さんを初め、役員さんの五人の方に差し上げたく存じます」(一同拍手)
「誠に恐れ入りますが、只今お名前を申し上げた方々は此方までお進み下さい」と言って座につくのを待ってから「それではお盃を差し上げる方は、会長には○○さん、役員さんには△△さんと五人のお酌人指名します。尚、肴中の儀は(謡いを謡う事)□□さんお願いします。(事前に来客の中からお願いしておく)(一同拍手)

(注)結婚式を例外として、その他の慶事は、盃を受ける人数は奇数がおめでたいとされています。普通は盃を受けますと返盃の儀がありますが、結婚式の際は返盃を致しません。

「御盃を差し上げる方々もこちらへ御着座をしてくださるようお願い申し上げます」と言います。名前を呼ばれた人達は進み出て、盃を受ける人が先に着座し、その前に差し上げる人が座し一礼します。お酌の人は、座敷に進み出る時に徳利と盃を持参します。

「謡い」を謡う人は、次の様に言う場合があります。
「大変晴がましいお役を頂きましたが、皆さんも御同吟をお願い致します」と言いますが自信があったら一人で謡う方が良いと思います。「謡い」を謡う人は肴中の儀ですから形だけですが御頭付きの魚と箸を盆にのせて、自分の前に置き、盃を受ける人に向け直します。(扇を膝の上に取りて待つ)座る場所は差し上げる人(お酌をする人)の下座又は横座に座ります。(座敷の都合)差し上げる人は先ず盃を受ける人に渡し、次に徳利の酒を注ぎます、と同時に肴中の人はツヨ吟にて「謡い」を謡いだします。盃を受けた人は「謡い」が終り近く迄、両手で盃を持ったまま、待っていますが「謡い」が終わると同時に、三度に飲み干すのが良いとされています。お酌の人は「お加え」といって再度盃に酒を満たします。受ける人はそれも飲み干しますが、この時は「謡い」はありません。「お加え」が終わりますと盃を受けた代表者が次ぎのように話します。
「只今は御丁重なる御盃を頂き、ありがとうございました。御返盃を皆様御銘々に致すべきですが、只今頂きました方々に差し上げて皆様に御返盃を致したと同じ事にお願い申します。肴中の儀は引き続き□□さんにお願いします」と言います。その作法は先に差し上げた時と同じでありますが、「謡い」はヨワ吟にて謡います。魚の向きは先のままで変えません。終わりましたら一礼して元の席に戻りまして、「お悦びの盃」事は終わります。

此の事は来客が、主人(亭主、主催者)への敬意と御馳走になりました御礼の挨拶の意味もあります。また、御勝手方はここで御飯を出します。急な用のある方は帰り支度をしても良い節目ですが、盃事が済まないうちは失礼になります。
頃合を見て来客の中より発言があります。
「座も大変賑わっておりますが、ここでひと締締めたいと思いますので皆さん大胡座をお願いします」と言いますと、それぞれ自分の座に大胡座をし車座の如く座し、音頭を取る人が大きく手を広げて「ヨオー シャンシャンシャン オッシャシャンのシャン おめでとう」又はありがとうとかその場の言葉で締めます。
これがひと締めです。やや間を置き、今度は「万歳の三唱」があります。
万歳は初め来客側より主催者の方へ、益々の弥栄(いやさか)を願い三唱をします。
そうした後、主催者側より御返しの来賓各位のご健勝を願い万歳の三唱をします。これで宴席は「御開き」になります。しかし、主催者は愛情を込めて「万歳は解散の意味にあらず、有るを尽くしてごゆっくり御過ごしください」と申しますが、おおむねこれで「御開き」です。

「万歳は解散の意味に有らず」と申しますが、実は「御開き」の合図で、此の事は主催者も来賓も皆承知しています。来客側から申し出るところに信州人の気持ちの豊かさが表れています。主催者への敬愛と思いやりを込めた詩情溢れる雅な心が、宴席に謡いを添えて、「お悦びの盃」事となりました。
私たちは、折角此の地に生まれ、幸いに先人の伝統文化を受け継ぎましたので、また次なる世代に引き継ぎたいと思っています。

当地でよく謡われる「謡い」の一例を、現代語訳でご紹介します。

羅生門(らしょうもん)
ともなひ(かた)らふ諸人(もろびと)に。
御酒(みき)(すす)めて(さかずき)を。
とりどりなれや梓弓(あずさゆみ)
弥猛心(やたけこころ)の一つなる。
武士(つわもの)(まじ)はり頼みある仲の酒宴かな。

(本文は、観世流能楽師:宮川正司様記述を参考に記す)