雨浦地蔵尊
むかしは、聖山をさかいにして、桑原の方を坂下、麻績の方を坂裏といっていました。
聖山の頂上には、日でりの時でも枯れたことがないお種の池がありますが、この池の水は坂裏へ流れていき、坂下へはいきません。そんなわけで、坂裏はいちども干ばつにあったためしがありませんが、坂下はいつも日でりのために、雨乞いなどして大さわぎしていました。
坂下の長福寺に、身もともわからぬまま、小さい時から和尚さんに育てられていた隆蔵という小僧がいました。隆蔵小僧は、お経はすこしもおぼえませんが、薬草のことならなんでも知っていて、夏になると、いろいろな薬草をとってかげぼしにしておき、病人たちに施してやっていました。
「隆蔵小僧は、お経の文句は知らぬが、お経のおしえを知っている」と、和尚さんは、隆蔵小僧をかわいがっていました。
隆蔵小僧が十五歳の時のことでした。坂下は日でりのため干ばつとなり、田畑の作物は枯れそう、井戸水もせぎの水も底をついてしまいました。人びとは、お種の池へ代参を出し、種水をもらいにいったり、長福寺の庭で、雨乞い千駄焚き(たくさんのまきを山のようにつみあげてもやすこと)をしたり、雨乞いをしました。そんなある時、隆蔵小僧は、薬草をとりにいくと寺を出たまま、夕方になっても帰って来ませんでした。「隆蔵小僧のことだ、そのうちにケロッとして帰って来るにちげえねえ。」と和尚さんはあまり気にもかけませんでした。
ところが隆蔵小僧は、二日たっても三日たっても帰ってきません。
さあ和尚さんは、いてもたってもいられず、坂下の人びとに隆蔵小僧をさがしてもらおうとしました。それを聞いた人びとは、今は雨乞いでだいじな時だが、隆蔵小僧にゃあ、病気でこまった時めんどうもらった恩がある。ほうっておくわけにはいかぬ。と、手わけをして、隆蔵小僧をさがしに出かけようとしました。
するとその時でした。ゴーゴーという川音がひびいてきました。
「聖山から、お種の池の水が来たぞ!」と、だれかがさけびました。「なに!お種の池の水!」と、人びとはふしぎがりましたが、みるみるうちに、せきや田に水があふれてきましたので大よろこびしました。「隆蔵小僧も、こんどの干ばつを、とてもあんじていたようだが、この水を見たらきっと、よろこんだにちげえねえ。」「それにしても、隆蔵小僧は、どこへいっちまったかなあ。」
坂下の人びとは、いっしょうけんめいさがしましたが、小僧はついにみつかりませんでした。
お種の池の水は、三日三晩、坂下をうるおしました。
一方坂裏では、お種の池の水が、きゅうにこなくなったので大さわぎとなりました。
そこでさっそく聖山にのぼってみると、見慣れぬ小坊主が竹ぼうで坂下がわの土提に穴をあけているところでした。「われはいってえなにをする気だ。」坂裏の人びとはかんかんにおこって、小僧をみんなでとっつかまえました。すると小僧は、「坂下は今干ばつで、生きるか死ぬかのせとぎわだ、こまるときゃあおたげえだ、ちょぴり水を坂下へもらったぜ。」と、いいました。
さあ坂裏の人びとのおこりようといったらありません。小僧を縄でぎりぎりしばり大きな赤アリの巣へたたきこんでしまいました。が、それでもまだ気がすまなかったのか、その上に大きな粉臼をかぶせてしまいました。「これで小僧も、赤アリに生血を据われて死ぬだろうなあ。」坂裏の人びとはにくにくしげにいって帰りました。
このことを聞いた坂下の人びとは、「さては、あの水は隆蔵小僧が、坂下へ流してくれた水だったのか。小僧を死なせてはならねえ。」と、いって、粉臼をすえた赤アリの巣をけんめいにさがしました。ようやくのこと粉臼はさがし出しましたが、隆蔵小僧はどこにもいませんでした。
人びとはたいへんかなしみ、粉臼を隆蔵小僧の形見としてひきとりました。
そののち坂下の人びとは、粉臼を台にして地蔵尊をきざみ、天浦せぎのほとりにまつりました。
そして、天浦地蔵尊としていつまでも隆蔵小僧をしのび、今も供養をつづけています。
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