本書をまとめるに至った動機
千曲市川西地域(八幡・桑原・稲荷山地区)に於ける「地域の歴史・文化を掘り起こし未来へつなげよう」と住民に呼びかけた処、貴重な写真の提供があり、先人の営みについてまとめてみたいと思い筆を取った次第です、稚拙ではありますがご笑覧下さい。
千曲川洪水被害の状況
千曲川に於ける水害被害の歴史は、記録されているだけでも天文十二年(一五四三)千曲川大洪水、舟山郷が流されたと伝えるのが最初の被害を記した記録である、それから明治四五年(一九一二)までの三七〇年間で約九〇回の洪水被害記録を数える。
このことは、ほぼ四年に一度洪水に見舞われたことになる。水は農業にとっては必要不可欠であるが、洪水被害を発生することのない、適量の水量を願っても自然は思うようには行かない、まさに先人は水との闘いであったと云っても過言ではない。
主な年表を列記すると
・寛保二年(一七四二)戌年の満水と云われている。七月二七日から降り出した雨は、ほとんど止むことなく、八月一日まで降り続き、千曲川と支流は大洪水となり、被害状況は、千曲川流域では死者二八〇〇人前後となっている。
・弘化四年(一八四七)七月洪水、千曲川流域では、寛保の洪水と並んで、江戸時代におけるもう一つの大災害であり、地震による土砂崩れで犀川がせき止められ、一九日後に崩壊し上下流域に被害をもたらした。これは、七月八日に長野県北部から新潟県南部にかけて起こった信濃地震(善光寺地震)と呼ばれ、日本の地震史上において最も著名なもののひとつである。
・明治元年(一八六八)五月洪水は、辰の満水と呼ばれ、水害は千曲川にとどまらず全国的規模の被害であった。しかし歴史的には色々語り継がれているものの、幕藩体制崩壊寸前の騒然たる年に当たっているという歴史的背景から記録として残っているのは意外と少ない。
・明治十五年(一八八二)九月二日上徳間大締切り堤防が破れる。八幡村十一人堤防二十二間破れ八幡、稲荷山地籍三百戸浸水。三島、須坂千曲川逆流で田畑浸水。同年、九月二十九日、十月四日にかけての大雨の洪水で、若宮外川原堤防が八十五間決壊、田畑七十町歩浸水し四町歩荒地となる。
・明治十八年(一八八五)六月三〇日、七月一日の雨で若宮堤防六十間決壊し、若宮、須坂耕地浸水、河道が須坂の家下の県道より五十㍍東側に変わり、春には付場を出したとつたえられている。
・明治二十二年(一八八九)八幡、稲荷山の田被害、松節堤防決壊。
・明治二十九年(一八九六)七月洪水、寛保二年(一七四二)の「戌の満水」以来の水量といわれ、明治時代最大の洪水であった。被害状況は、千曲川支流では流失・浸水家屋一万戸以上となっており、信濃川中・下流域では死者七十五人、流失家屋二万五千戸となっている。
・明治三〇年(一八九七)九月洪水、九月九日、犀川、千曲川共に洪水があり、千曲川流域では被害一町十五ヶ村、浸水家屋五九〇戸となっている。
・明治四十三年(一九一〇)八月洪水、千曲川をはじめ、各河川が氾濫した。被害状況は、流失・全壊家屋二五九戸、床上・床下浸水家屋一万二八〇〇戸となっている。
以下、大正三年、昭和八年、昭和二十四年、昭和三十三年、昭和三十四年、昭和三十六年…と洪水被害が続き毎年堤防補強工事が行われ、水との闘いが続いた。
明治四十三年(一九一〇)庚戌の被害状況を記す
明治四十三年八月十日・十一日・十四日・十五日と降雨は続き、明治最大(一〇五㍉)の大豪雨となり川東地区において、五加村の堤防四個所決壊浸水家屋一七三戸、床上浸水家屋一七戸の被害となった。この洪水は川西地区に甚大な災害をもたらした。須坂下中島堤防三〇〇間(五四六㍍)を決壊し、浸水耕地は須坂中島・羽尾坪の内・須坂三島で十町歩・流失一戸・浸水家屋五戸をのみ込み、濁流は三島より八幡村代の十一人(十一人という開拓された地名)耕地をのみ込み、八幡代の中堤防を破り八幡村人家二百五十戸床上浸水、この時八幡村の黒田宅が水に浮いた油に手明かりの火が移り火災になったが洪水止水に全力を注ぎ、消火活動はできなかった。川筋は暫く三島から十一人(代地区地名)にかけて流れ、その跡地は三島の池として残る。
・明治三十五年(一九〇二)~明治四十四年(一九一一)は毎年洪水被害に見舞われ堤防破壊が記録されている。
下の写真は、明治四三年上流部堤防決壊で八幡村が洪水となった時の水位が土蔵の壁に残っている事を証明している。
(提供写真の裏面に記された内容)
此処に撮写する堤防は、延長百三十間にして、更級郡八幡村字中島、本縣執行に係る復旧工事なり。設計は清水勝方技手にて、惣代吉池儀一郎其工を受け負ふ所なり。明治二十九年十一月六日着手、三十年五月二十二日竣工を告ぐ、本堤の高壱丈弐尺、最堅牢なる築造なり。自今洪水氾濫岡を浸すあるも以て崩壊し憂なきを保す。嗚呼、沿岸人民の幸福豈、至大ならず哉。
一級河川の佐野川は桑原、八幡西沖、稲荷山沖の農地へ
(更級埴科地方歴史年表より)
・寛永八年(一六三一)佐野川出水、北国西街道を破壊、桑原村の一里塚流出
・明和二年(一七六五)佐野川氾濫、稲荷山村水田被害
・弘化二年(一八四五)聖山を中心に大驟雨、桑原村山抜け、沢荒れ、人家全半壊二三戸、土砂泥水入り一九戸、死者四人負傷者無数
・明治十四年(一八八一)佐野川本流支流があふれて荒地が多く出来る
旱魃の記録
(八幡村誌復刻版より)
・慶安三年(一六五四)夏大干魃(賦役半免)
・貞享元年(一六八四)旱魃八幡桑原貢祖減ぜられる
・元禄三年(一六九〇)旱魃
・享保元年(一七一六)秋旱魃(木綿土用後八、七日をすぎてまく)
・明和七年(一七七〇)旱魃(七月)佐野川分水論起こる八月和談
・天明四年(一七八四)旱魃、米麦実らず
・文政六年(一八二三)旱魃(六月)千曲川干上がる
・明治十六年(一八八三)夏旱魃
・明治十八年(一八八五)雨多く麦減作旱魃稲減作
・大正十五年(一九二六)大旱魃(五月)西沖七分作
以上のように旱魃による農作物への影響も水害被害に加えて農民を苦しめた。
この自然災害から守る知恵として灌漑池の設置を先人達は考え築造した。
灌漑池設置の歴史
(八幡村誌復刻版及び桑原村誌より)
・天正十二年(一五八四)真光寺池成る(六反九畝十歩)
・慶長十七年(一六一二)前宝殿池成る(八反一畝六歩)
・天明二年(一七八二)八幡村猿飛池成る
・文化十五年(一八一七)沓打平溜池築造
・文化十五年(一八一七)南浦底水道割普請
・明治二十八年(一八九五)小坂新池(しげいけ)築造
・昭和十八年(一九四三)荏沢溜池 大田原に築造(小坂地区利用)
佐野川の扇状地に位置する更級郡桑原村・稲荷山村・八幡村は主に稲荷山・桑原の入会地、横手山より源を発する佐野川及び中沢川の水を分水して灌漑していた。そのため左岸の桑原村・稲荷山村は右岸の八幡村・郡村・志川村(以上八幡三ヶ村と呼んでいる)では水争いが絶えなかった。元禄四年(一六九一)八月十二日幕府裁許により、佐野川十分、中沢川五分、合計十五分を分水することになった。即ち桑原村へは横堰にて三分、横沢堰にて一分、稲荷山村へは楮田堰にて一分、一里山堰にて二分五厘、八幡三ヶ村へは矢崎堰にて四分五厘、志川堰にて三分と裁定された。(松林文書)
元禄四年の推論栽許によって、佐野川各堰の水割度合は将来の基本となった。
水論の原因は勿論水の配分量に係ってであるが、沢水を引いて田用水の外、水車があったり、酒造用の水などについても紛争がたえなかった。分水の度木を夜中に打った等の例はいくつもあったが、今では当時の苦労を理解する術は何もない。
西沖耕地潅漑対策工事(電気揚水工事)
(西沖土地改良事務所庭設置建設碑「創立五十周年記念碑」より)
西沖耕地の潅漑水は古来佐野川より引水し地区内の植付けを終るを隔年旱害を被り殊に
大正十三年及び十五年の大旱魃の際は地区百二十町歩の内三十五町歩余の植付不能の非常事態に直面したる為、西沢貞治翁は指導者となり耕作者百四十五名に呼びかけ千曲川より電気揚水による潅漑を計画し、昭和二年二月耕地整理組合法による組合を設立し初代組合長として幾多の財政苦難や障害を克服し、総工費九万有余円の巨費を投じ同年四月十三日起工、六月三十日竣工という昼夜兼行の突貫工事は二ヶ月半という短期間に今日見る大事業を見事完成、以来ここに五十周年を迎えるに当り先覚者西沢翁を始め当時役員諸氏の嚇々たる功績に対し衷心より感謝と敬意を表し之を永遠に記念すべく碑を建立して其の概要を記す。
本記念碑文面より、提供写真の背景が判明し、当時を知る意味で写真を掲載する。
稲荷山沖の揚水工事は、八幡西沖揚水工事より早く大正十四年に完成している。写真・記録等が収集出来なかったので省略した。なお、平成二年度老朽化した揚水機をオーバーホールし、小坂往来まで揚水し水田の水不足を解消した。また、同時に桑原地区のりんご・ぶどう等の畑灌まで実施して今日に至っている。(塚口一男著より)
今回収集した写真をきっかけに、地域住民が水とどう関わったかを地域誌等と写真とを重ね合わせる事により、当時の姿が少しでもお判り頂ければ幸いである。
写真提供にご協力頂いた方々に感謝申し上げるとともに、まとまりのない内容となったことを深謝して筆をおくこととする。
なお、収集した写真を基に近日中に写真集発行の計画があることを記す。