猿ヶ馬場峠山論裁許状

八幡・郡・志川・羽尾四ヶ村百姓答え候は、小高栖(こたかすの峰みね。鍋窪の頭)より樋ガ峰(樋峰、北山)・猿ヶ馬場峠・三つ峰・風越山峰・一本松・冠着嶽境の由これを申す。糺明きゅうめいを遂げる処、双方申すところ不分明、これにより検使三上半兵衛・宍倉与兵衛検分の上、いぎれ(樋峰下)より湯光坊・土橋・三つ峰・風越山峰・鷲岩・一本松海(街)道限りの冠着嶽まで、郡境相定め候。墨引の外、東北にこれ有る畑八枚、境不慥かに付、開きおき候と相見え兼(他書)ね、向後これを荒すべし。次に札山内山異論に及ぶと雖も、証文証跡これ無く、紫草多くこれ有る方は内山と相見え候。其の上、見通し境用の中尾根より一本松まで、札山境相立て(候脱)。かつまた、羽尾村百姓申し候は、永井村地内の山、請納山たる由これを申す。永井村の百姓札山の由これを答う。吟味せし処、松城領仙石・須坂・若宮・徳間四ヶ村百姓新山札請取るよし、永井村へ証文これを出す条、羽尾村も山札所持致し、永井村の山へ入り候と相聞え候。紫草茂り候分は、永井村内山に相極きめ、口あき岩の尾根より道心が峰まで、絵図の面墨筋を引き、おのおの印判を加え、双方へ下し置く間、再び犯すべからざる者也。元禄十年(一六九七)丁丑七月廿二日萩近江御印(下略)また、麻績村側の勝訴は、天領(幕府領となったのは享保十年一七二五以降)故と称する人もいるが、確かな証拠や理由がなければならない。猿ヶ馬場峠山論、提訴の四か月前の元禄七年二月に、大岡村側との聖山論争の判決が下っているが、麻績村の敗訴になっている。本稿は「ちょうま」第二八号、二〇〇八年一月発行堀内暉巳氏「猿ヶ馬場峠道の自然と史跡」より借用したものである。

文責 山口盛男

猿ヶ馬場峠解説-1