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路傍の廻国供養塔から榮性(えいしょう)学僧を偲ぶ


山口 盛男

はじめに
 善光寺道沿い梨窪の杉木立に建つ「廻国供養塔」の碑陰には「寛政九己天四月吉日八幡村行者 良国・妙国」とあり、どんな人が何の為に此の場所に供養塔を設置したのか以前から気になっておりました。
 最近ふとしたことから解明の糸口が見えてきました。早速お宅にお伺いしてお話しを聞き併せて資料を見せて頂きました、廻国供養塔を設置した浦澤勝右衛門(良国)さんの二男が紀州(和歌山県)根来寺大伝法堂を建立した榮性学僧であることを知りました。このような高僧が我が郷土、八幡から輩出されたことを想いまとめてみましたのでご笑覧下さい。
廻国供養塔について
 廻国供養塔は、修験者が諸国の道場や霊地で修業し、帰国後の記念碑であり各地に見られる。梨窪の杉林に建つこの廻国供養塔の碑陰には「寛政九己天四月吉日八幡村行者 良国・妙国」とある。八幡、森下の浦澤家の祖先といわれる。江戸時代まで天台、真言の両宗は密教と称し、本尊は大日如来、葬儀には関わらず、従ってごっしゃんとは言わず、俗に山伏、行者等と呼ばれ、悟りを開く厳しい修行と加持祈祷に専念したものである。(ちょうま第二十八号抜粋)
 浦澤さんのお宅には全国のお寺の御朱印帳が沢山残っており、苦労を重ね修験者として全国を歩いた証しにお目にかかり、この家系から立派な学僧が輩出したことに改めて感服しました。


中原開眼寺を左に見て急坂を500m程上った梨窪地籍の杉木立に建つ日本廻国供養塔

浦澤家と神社周辺の様子
 武水別神社では、毎年十二月に大頭祭という文化事象が八百年以上にわたって継承されている。この祭り開催期間には、近郷近在より大勢の人々が集まり祭りを楽しむ老若男女で賑わった、浦澤家は神社本殿左横西小路を挟んだ通りに面した場所で旅館(本浦澤屋)と大百姓を営んでいた。信州八幡宮御頭帳によると寛政四壬子年十一月十五日五番頭 森下 浦澤勝右衛門の記録があり、その後四番頭、弐番頭、壱番頭(昭和九年)まで務めた有力者の家であります。

榮性の生い立ち
 明和五年四月十四日更級郡八幡村浦澤勝右衛門の二男としてうまれた、幼名を又治郎といった。昔のことだから学に就く方途も無く夜になると祖父に噺をして貰うことが何よりの楽しみであった。ある時兄と楮の皮が紙になるという話題について論争したが総領の甚六が言い負かされてしまった。「又治郎また兄をのしてしまったな」といって父が笑ったという。九歳で初めて手習いに就いた。十歳になった時、金剛寺(現高府)の榮壽法印が八幡参りの際、浦澤家に逗留し又治郎少年と出会った。偶然にこの天才少年を発見してそのまま伴って寺に連れ帰ったとなっているが、十歳の子どもを手放す親の気持ちはどうだったかは知る由もない。八幡より金剛寺まで途中二つの峠を越え約二十四㎞の山道を十歳の少年が榮壽法印と連れだっての胸中はいかばかりか察するに余りあります。総領弟子の地位を与え、翌年四月には得度(僧侶になること)した。仮名を諦純、実名を榮慶、後に榮性と改めた。この師弟は不思議にうまが合い、榮壽は全力を傾注し、弟子もまた師匠の熱意に感謝して喰いつくような勉強振りで、使い走りから水汲み掃除と働く他は昼も夜もなく経の読み方や漢籍の句読に熱中する日々であった。そして天明二年十五歳にして師と同じ資格である「権大僧都」になってしまった。榮壽師匠はこの辞令を見て自分の目を疑い他の人に確かめて貰った程であった。師匠は歓喜して「後世恐るべし」と賛歎した。十八歳豊山(奈良長谷寺)に上り交衆という共同生活に入った。三月一旦山を下り入京して黄檗山出版の最極上の大般若経を買って中仙道を下り無事金剛寺仏前に供え師匠に報告した。十九歳で法印の位に叙せられたことを契機として師匠は「金剛寺の山寺で生涯を終わらせる人間ではない、天物を無意味に捨ててはならない、本人の天分を伸びるだけ伸ばしてやろうと覚悟を決めて、本腰を入れて二十歳の時、豊山に留学させた。

豊山での修行時代
 二十歳の榮性は雲井坊蓮阿に仕えて学問した。登山当初から権大僧都の官を持っていた雲水(榮性)は大変異例のことであった。二十七歳の時蓮阿に従って歓喜院に入った。二十八歳で一旦信州に帰り金剛寺に榮壽師匠を訪ねた。七年振りの面会、師匠此の時六十歳、師弟夜の明けることも忘れて語り合ったことであろう。金剛寺を辞して八幡の浦澤家に立ち寄り、同族の十四歳になっていた惣次郎(一説には弟とも言われている)を連れて豊山に帰り、ここで出家させた。この惣次郎が榮賢であり金剛寺第十一世住職となり三十四歳の若さで遷化し榮性を悲しませた。その菩提のため紀州候の斡旋で本尊大日如来像を仏師に刻ませ、豊山にて開眼供養の後金剛寺に納めた。
 寛政九年八月三十歳で蓮阿に従って武州弘光寺に入る、翌年蓮阿に暇を請うて豊山に帰り寮舎に移った。享和二年小池坊代僧に挙げられ法用を帯びて出府した。享和二年第二の師匠蓮阿和尚が遷化し、文化七年榮壽師匠が遷化した。生涯最も恩を受けまた尊敬もしていた師匠を榮性は死しても忘れず、金剛寺には事あるごとに浄財を投じた。


浦澤家に祀られている榮賢さんの位牌

根来寺時代
 文化十一年四十七歳の時、紀州大納言より菩提所蓮華院の学頭にとの意向で、奈良長谷寺から紀州根来寺に入った。翌文化十二年権僧正を拝し勅任の栄位に昇った。権僧正は勅任官であるから御所清涼殿への昇殿、江戸城への登城も許された。権僧正は僧侶の乱行不正を糺す役目で、德望のある人が選ばれる役職であった。
 根来寺は高野山上に大伝法院・密厳院を開いた覚鑁を祖師とし、この流れを汲む智山・豊山派の寺院であり、現在全国で六千余を数える一代聖地である。
空海の教えを自らの宗教の形にして現した大伝法院は金剛峰寺との抗争によって焼き払われ、その後覚鑁を継承した僧侶たちによって大伝法院や大塔等が復興され真言密教の形が再度出現した。その後数多くの法難を経たが中でも天正十三年の秀吉の紀州攻めにより根来寺は炎上する。時代が徳川に移ると根来寺は紀州家の庇護をうけ多いに興隆した。寛政九年紀州家を大檀那に蓮華院主法住が再興を発願した。間もなく榮性は蓮華院学頭として豊山から招聘され、中心となってこの一大事業を遂行することになった。文化十四年大伝法堂の普請に着手し、信濃から始め全国への勧化が始まった。長いこと失われていた大伝法堂は榮性の十年間の努力によってついに文政十年立派に甦った。大伝法堂が失われて実に二百四十余年ぶりのことであった。内部には丈六(4・8m)の大日如来像・金剛菩薩像・尊勝仏頂像の三体が安置され、新義真言宗総本山の密教寺院根来寺の最も大切な場所とされている。榮性の功績は大きく「大伝法院中興第四世」としてほぼ等身大の立像が刻まれ、大伝法堂内の須弥壇上に安置されている。


10年の歳月をかけて完成した大伝法堂

大伝法堂内に安置されている等身大の榮性像

護国寺・護持院・譽楽寺時代
 仏教界に広く知れ渡った榮性の業績は当時の幕府に知れるところとなり、天保四年徳川宗家に請われて、神田錦町の護持院に入り護国寺の住職も兼務した。
天保六年に恩師榮壽和尚の追善供養の句七十五首と自筆の八祖図に添えて掛物にして榮光住職(金剛寺第十四世法印)に贈っている。その一句一句を読んでみると親にも勝る恩師榮壽師匠を失った悲しみや世の無常、そして自身の葛藤まで榮性の人となりが良く表されている。自身の健康にも自信がもてず、引退を決意したのもこの頃ではなかろうか。天保七年十一月二日榮性六十九歳で隠居して田端の譽楽寺へ移り、翌天保八年十月十三日七十歳にて遷化した。

おわりに
 権僧正榮性は学識深く、德望高く、浄財を勧化しそれを惜しみなく寺堂に注ぎ、私物化することはなかった。当時僧侶の風紀が乱れ罪に問われた者が多かった時代、好学の精神を徹底、若き学僧の面倒をよく見、導いた。
榮性の生まれ育った当時の浦澤家は、当主浦澤勝右衛門さんは一家の主として生計をたてつつ、行者として悟りを開く厳しい修行を積み全国行脚を重ねられた証拠として、御朱印帳の山をお見せ頂き、この親ありて榮性さんが誕生したことが理解できました、そして当時の八幡村中原から急坂を上った梨窪は善光寺道で京都・奈良方面へ上る場所であり旅人も多かったことから、廻国供養塔を設置してはるか遠くの都で修業に励む榮性の無事を念ずる親の気持ちの表れと思いましたが皆さんはどのようにお感じになりましたでしょうか。
最後に浦澤家近親者所蔵軸の説明をし、真言宗の世界を極めた偉大な権僧正榮性師をここに謹んで顕彰します。



浦澤家近親者所蔵軸

根嶺権僧正榮性 印 印

文政六のとし長つきの
いつ日申の時ばかりに
感見のすがたを
      もとめにまかせて
           しるす

あな尊と半そらみればむら雲に
のりの一文字あらわれにけり


参考文献
金剛寺史  佛性山 金剛寺  昭和三十三龍集戌成秋日
第二十世晋山記念誌 佛性山曼荼羅院 金剛寺 平成二十七年八月七日 刊
根来寺の歴史と文化財


榮性年譜

年譜西暦榮性履歴浦澤家履歴
明和5年4月14日1768・浦澤勝右衛門の二男として生まれる、幼名又治郎
享保6年1777(10歳)・水内郡金剛寺榮壽法印を師として得度
 仮名諦純、実名榮慶後に榮性に改める
天明3年1783(15歳)・榮性15歳にして師と同じ資格「権大僧都」となる
天明7年1787(19歳)・19歳のとき豊山(奈良長谷寺)に登る、法印の位に叙せられる
寛政4年1792(24歳)・勝右衛門
5番頭実施
寛政9年1797(29歳)・榮壽師匠豊山への本格留学を決め、雲井坊蓮阿に仕え学問に励む
・廻国供養塔建立する
享和2年1802・第二の師匠蓮阿和尚遷化
享和3年4月1803(35歳)・勧学院の常役となる
文化7年1810・榮壽和尚遷化
文化11年5月1814(47歳)・根来山に住み48歳で権僧正となる
文化14年1817・大伝法堂の普請に着手
文政10年1827(59歳)・大伝法堂完成
 240余年ぶりの再建
天保4年10月4日1833・護持院と護国寺の住職となる
天保6年1835・恩師榮壽和尚追善供養で金剛寺へ数々の品贈る
天保7年11月2日1837(68歳)・譽楽寺に隠居
天保8年10月13日1839(70歳)・遷化